芸術は心のごはん🍚

家族泣かせ・多趣味女のブログです。浅田真央ちゃん・バレエ・映画・読書(小説・漫画)・アニメ(主に昔の)大好き。主に書評・映画・音楽等の芸術の感想、紹介文を書いています。時々、子育て記録・懐メロ替え歌、素人イラストもアップします。

少女のころ  〜「ペンフレンド」〜

こんにちは!

今日は、記憶の続きです。

 

 

前回記事では、調子の良いことばかり書きましたが、実際の私は、未だに自分個人の大きな問題も、解決できないでいました。

 

仕事と言っても、4時間ほどのアルバイト。

フルタイムをためらっていた理由は、大きく2つ。

 

お客様の前で、極度に緊張してしまう。

団体生活や仕事など、拘束のある状況で、お昼ご飯をまともに食べることができなかった。

 

ゆえに、体力も集中力も、長時間維持できる自信がありませんでした。

 

自分の内なる声だったのか、親からの脅迫だったのか、よく覚えていませんが、

絶えず

「このままで良いのか?」

「この状態を、いつまで続けられるのか?」

という不安に苛まれていました。 

 

そうした中で、ケーキ店にとっての繁忙期、12月となりました。

普段の私は、支店勤務だったのですが、12月24、25日だけは、本店の助っ人に入ることになりました。

さすがに、目の回るような(緊張感も吹っ飛ぶほど)忙しさでした。

確か26日はお店がお休みの予定で、25日の閉店後、お店の人たち皆んなで、忘年会があり、それに参加させて頂いたのを覚えています。

そうしたことも、初めての経験でした。 

 

12月の下旬、彼から手紙が来ました。

それが、クリスマス・カード的なものだったか、普通の手紙だったか、覚えていません。

大体の内容は、誠実な感じだったと思うのですが・・・

またしても、またしてもですよ!!文末

 

「冬も帰れ(り?)ません」

 

…あーた、暮れも正月も帰らんのかい!!!!!

 

という状況だったので、さすがの私も思いました。

「リアル(現地)彼女できたんじゃね?」

「文通がめんどくさくなってきたんじゃね?」

 

私は、「大学」「専門学校」などのシステムに無知だったので、そういう点も、よくわからなかったのですが。

 

後、私が、なんとなく感づいていた事は、

私の方から電話する事はできませんでしたが、彼の方では、私の自宅の電話番号が分かっていたはずなので、公衆電話などを使えば、できない事ではなかったという事です。

ロシアン🔫を覚悟できれば。

 

クリスマスもそうですが、私たちは、男女のこだわるイベントに、とことん関係なく文通をしていました。

私たちは、同じ小中学校でしたが、お互いの誕生日も、血液型も知りませんでした。

1989年末を、私は19歳で迎えました。

 

私は、返事を書きましたが、

「良いお年を」だったか

「明けましておめでとう」にしたか、

覚えていません。

 

今日のBGMは、今日の心のというよりは、満を持して…?

爆風スランプ「大きな玉ねぎの下で」です。

この曲が作られたのは、85年あたりのようなのですが、シングルとしてリリースされたのは、まさに私たちが「ペンフレンド」だった89年の秋だったようです。

当時はそのことを知らなかったのですが。

 


大きな玉ねぎの下で

 

私は当時、学生時代の女友達とも、疎遠になってしまっていました。彼女たちとその後会うようになってからも、おそらく自分の文通のことを話さなかったし、遠距離恋愛をしているという話も、周りで聞いた事がなかったのですが、あの頃って、もしかして、文通している人たちって、たくさんいたんでしょうかね?

 

いずれにしても、今のように「携帯」「PC」「スマホ」がなかった事は、確かです。

 

お付き合い、ありがとうございます。