たけくらべ 第七章 (彼もとても繊細)
龍華寺の信如、大黒屋の美登利。二人とも、学校は育英舎である。
今年の四月の末、桜が散って青葉のかげに、藤の花見という頃、春の運動会を、水の谷の原で行った。つな引き、まり投げ、縄跳びなどの遊びに、日が暮れるのも忘れて夢中になっていた時のこと。
信如は、どうしたことか、いつもの落ち着きに似合わず、池のほとりの松の根元につまづいてしまった。赤土の道に手をついたので、羽織りのたもとにも、泥がついてしまったところに、(ちょうど)居合わせた美登利が、みかねて自分の紅(くれない)のハンカチを取り出した。
「これで、お拭きなさいな。」
と、お世話をしたところ、(それを見ていた)友達の中の焼き餅やきが、
「藤本は坊主のくせに、女と話をして、うれしそうに礼を言ったのは、おかしいじゃないか?」
「きっと美登利さんは、藤本のおかみさんになるのだろう?」
「お寺の女房なら、大黒様(大黒は僧侶の妻を指していう蔭語)と言うんだよ!」
などとからかわれた。
信如は元々、このような事を、他人の事で聞くのも嫌いで、苦い顔をして横を向くタチだから、自分がそんなことを言われれば、尚更に我慢がならない。
それからというもの、美登利という名前を聞くと(何だか)恐ろしくなって、また、(誰かが)ああした事を言い出すかと、胸の中がハラハラして、何とも言えない嫌な気持ちになるのだが、だからと言って、その度に怒鳴りつける訳にもいかない。
なるべくは知らぬふりをして、平静を装い、難しい顔をしてやりすごそうとするのだけれど、(美登利に)直接向かい合って、ものを問われる時の動揺と言ったら(ない)。
たいていは「知りません(わからない)」の一言で済ませるのだが、(本当は)苦しい汗が体中に流れて不安な思いになっている。
そんな事とは知らない美登利は、はじめは
「藤本さん藤本さん」
と、親しげに言葉をかけていた。
学校帰りに、一足先を歩いていて、道端にめづらしい花などを見つけた時は、(美登利は)後から歩いてくる信如を待っていて、
「ほら、こんな美しい花が咲いているのに、枝が高くて私には折れません。
信さんは背が高いから、手が届くでしょ?
お願いだから、(私の代わりに)折ってくださいな。」
と、居合わせた一群の中では(信如が)年長だと思って頼んだ(事もある)。
さすがの信如も、(この時ばかりは、知らないフリで)無視して通り過ぎる事も出来なかったのだが、だからと言って、(また)人から勘ぐられるのは益々いやだった。
(そこで)手近の枝を、よくも確かめずに申し訳ばかりに折って、投げつける様に(して)、スタスタと行き過ぎたのだった。
(そうした信如の態度に美登利は)何とまあ、愛そうの無い人だろうと、呆れた事もあった。しかし、(そうした事が)度重なった末には、おのずから、わざとの意地悪の様に思われて来た。
(他の)人にはそうでもないのに、私にばかり、冷たいそぶりを見せる。
物を尋ねれば、ろくな返事をしてくれた事がないし、そばへ行けば逃げる。話をすれば怒る。(本当に)陰気で、息が詰まる。
どうすれば良いのか、機嫌の取りようもない。
あんな気難し屋は、好きなだけ、ひねくれて怒って、意地悪がしたいのだろうから、友達と思わなければ、口を聞く必要もないわ。
そう感じ、少なからず傷ついた美登利。(そんな訳で美登利からも)用がなければ、すれ違っても話す事もなくなり、偶然会っても、挨拶すら思いもしなくなった。そんな風に、いつしか二人の間に、(目には見えない)大きな川が一つ横たわり、船も筏(いかだ)も(この川の行き来は)ご法度、二人とも、それぞれの岸に沿って、それぞれの道を歩く様になった。
夏祭りの次の日から美登利が学校へ通う事がふっと途絶えたのは、聞くまでもなく、洗っても消すことのできない額の泥の屈辱が見に染みて悔しかったからだろう。
表町だから、横町だからといっても、同じ学校内に並んで座れば、学友に変わりは無いはずなのに、おかしな分け隔てをして、いつも意地を張り合っている。私が女なので、力がかなわない弱みに付け込んで、祭りの夜の仕打ちは、なんて卑怯だっただろう。
長吉がわからずやなのは皆が知っていて、(前から)この上ない乱暴者だけれど、(今度の事は)信如の後押しがなければ、あれほどに思いきって、表町に暴れ込まなかっただろう。人前では物知りらしく、大人しそうに振る舞っているのに、陰でカラクリの糸を引いたのは、藤本の仕業に違いない。
たとえ学年は上にしても、勉強はできるにしても、龍華寺様の坊ちゃんにしても、大黒屋の美登利、紙一枚のお世話にもなりはしない。あのように乞食呼ばわりされる筋合いはない。龍華寺に、どれほど立派な檀家があるのか知らないけれど、私の姉様三年のおなじみ様には、銀行の川様、兜町の米さまもある。議員の短小様(など)は、見受けして奥様にとおっしゃったのを、心意気が気に入らなかったので、姉様は嫌ってお受けしなかったのだけれど、あの方だって世には名高いお人だとやり手衆が言っていた。嘘だと思うなら聞いてみるがいい。大黒屋に姉の大巻がいなかったら、あの楼は闇だと聞いている。だからこそお店の旦那様すらも、父さん、母さん、(妹の)私の身だって、粗末には扱わない。
いつも大切に床の間に飾っていった瀬戸物の大黒様を、私がいつだったか、座敷の中で羽つきをすると言って騒いだ時、その横に並んでいた花瓶を(そちらに)倒して散々に壊してしまった時も、旦那様が隣の座敷でお酒を召し上がりながら、
「美登利はおてんばが過ぎるなぁ」
と、言われただけで、それ以上の事はなかったので、他の人であったら普通の怒られ方では済まなかっただろうと、寮の女性達に後々まで羨ましがられたのも、すべては姉様のご威光であろう。
私は寮住まいで留守番はしたりするけれど、姉は大黒屋の大巻、長吉なんかに負けを取るべきではないし、龍華寺の坊様にいじめられるのは心外だ。
と、それから学校へ通うことも面白くなくなり、わがままの本性をあなどられたのが悔しくて、石筆を折って墨を捨て、本も算盤(そろばん)もいらないものにして、仲の良い友達と気まぐれに遊ぶばかりになった。
ここで第七章 終了です。
この章では、その年の、春から夏祭りの日の間の、信如と美登利の間に、どの様な事があったかが書かれています。
美登利の親切で天真爛漫な性格ゆえの言動、それに対して、知的でシャイで、デリケートで不器用な信如の行動。二人は、外から見ていると、本当に真逆、対照的な人柄なのでしょうか。
後半は、夏祭りに侮辱を受けた後の、美登利の長吉、信如に対する悔しさ、怒り、自分の立場への誇りの気持ちが書かれています。
この章の心のBGMは、こちらでした。
念の為、この章に関する、過去記事はこちらですm(._.)m
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