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樋口一葉「たけくらべ 」について  〜 私なりの現代語訳 第九章 〜

こんにちは!

引き続き、現代語訳、失礼します。

 

たけくらべ 第九章 (信如の生い立ち)

 

 

「如是我聞(かくのごとく、我聞けり)」、「仏説阿弥陀経大乗仏教の経典一つ)」

 声は松風に調和して心のチリも吹き払えるはずの、お寺様の庫裏(くり:台所の建物)から、生魚をあぶる煙がなびいたり、卵塔場(墓場)に赤子のオムツが干してあるとは。お宗旨によって、(あまり)構わない事なのだろうが、法師を木のはし(特に僧侶や尼のこと。一説に、とるにたりない者の意)と、心得ている者の目から見ると、(なんだか)軽率で、生ぐさく思える。

 

(信如の実父である)龍華寺の大和尚は、財産と共に肥え太ったお腹も、いかにも見事で、その色艶の良い事には、いかなる褒め言葉を差し上げたら良いのだろうか。(肌の色は)桜色でもなく、ひもも(花が濃い紅色の桃)の花の色でもない。

 剃りたてた頭から顔、首筋に到るまで銅色の照りに、一点の濁りもなく、白髪も混じっている太い眉毛をあげて、遠慮のない大笑いをなさる時は、本堂の如来様が驚いて、台座から転び落ちなさりはしないかと危ぶまれる程である。

 

 その御新造(奥様)は、まだ四十歳の上をいくらも超えていない。色白で髪の毛が薄く、丸髷も小さく結んで見苦しくなくする人柄で、参詣者へも愛想がよい。(お寺の)門前の花屋の口が悪いおカミさんも、(御新造について)あれこれ陰口を言わないところを見ると、着古しの浴衣や、お惣菜の残り物などのご恩を受けているのだろう。

 

 (御新造は)元は檀家の一人であったのだが早くに夫を失い、頼れる親類もない身で、しばらくここ(龍華寺)にお針子の様な扱いで住み込んでいた。始めは、食べさせて貰えれば・・という状況で、洗濯から始まり料理はもちろんの事、墓場の掃除にも男達の手助けをするまで働いた。(そのため)和尚様は経済的な面でも考えて(自分にとっても)徳であり、(女を)不憫にも思い情けをかけた。

 

 年が二十ほど離れているのでみっともない事は、女も心得ていたが、他に行く所もなかったので、結局(ここが)良い死に場所だろうと、人目を恥じない様になった。

 (檀家の者からすれば)不愉快な事であったが、女の人柄が悪くなかったので、檀家の者もさしては咎めなかった。(そして)第一子の「花」という子供を身籠った頃、檀家の中でも世話好きで名の知れた坂本という油屋のご隠居さまが、仲人というのも変なものだが、事を進めて表向きのもの(正式な夫婦)にしたのだった。

 

 信女も、この人(母)から生まれた。(蓮華寺の子供は)男(信如)女(姉)の二人。

 一人(信如)は、元からの偏屈者で、(ほとんど)一日中部屋の中でイジイジとしていて陰気な性分の少年なのだが、姉のお花は、美肌で二重あごがかわゆらしく、人柄も愛嬌がある人。美人という訳ではないが、お年頃で人からの評判も良く、素人として捨てて置くのは惜しいと(周囲から)思われていた。

 かと言って、お寺の娘が芸者というのは・・お釈迦さまが三味線を弾くなどとは、知られていない世の中。人の噂が憚られるので、田町の通りに小ぎれいな葉茶屋をしつらえ、帳場格子の内(店先)にこの娘を据えて(お茶の葉と?)愛嬌を売らせれば、秤の目盛りはとにかく、勘定を気にしない若者などが、何気なく(この店に)寄るので、大抵は毎晩十二時を過ぎるまで店に客の影が耐えた事がない。

 

 (更に?)忙しいのは大和尚。貸金の取り立て、(娘の?)店への見回りに法要のあれこれ、月の幾日かは、説教日の予定もある。帳面をくくるやら、お経を読むやら(で忙しい)。これでは体が持たないと、夕暮れの庭先に花むしろをしかせて、片肌を脱いでうちわであおぎながら、大きな杯に泡盛をなみなみとつがせて、好物は蒲焼(なので)表町の武蔵家でうなぎの大串を、と言って買いに行かせるのだった。

 

 その買い物を仰せ付かるのは(いつも)信如だったが、(信如は)その役目が骨に染みて嫌であった。(鰻屋への)道を歩いていても、上を見ることができない。(鰻屋の)筋向こうにある筆や(美登利たちのたまり場だから?)に子供達の声を聞くと、(友人知人にそれが見つかり)自分の事を悪く言われはしないかと(不安で)、情けなくなる。そ知らぬ顔をして鰻屋の角を過ぎてから、あたりに人がいない隙を伺い、急いで戻って(鰻屋に)かけ入るときの心地と言ったら・・(そんな訳で信如は)自分は絶対に生臭いものを食べるまいと思うのだった。 

 

  大和尚はどこまでもさばけた人。もともと少しは欲深で名が知られていたが、人の噂に左右されるような小心者ではない。手が暇であれば熊手(商売繁盛祈願商品)を作る内職もしてみようと言う性格である。

 そのため霜月の酉の市には、例外なく門前の空き地にかんざしの店を開き、ご新造に手ぬぐいをかぶらせて(顔を隠させて)

「縁起の良い品物をいかがですか?」

と客を呼ばせて、儲けの算段。ご新造も、始めは恥ずかしい事に思っていたが、ご近所の素人の商売で大儲けがあったと聞けば、

「この混雑の中だし誰にも気づかれない事だろうし、日暮れ以降は、人目にもつかないだろう。」と考えた。

 昼間は花屋の女房に手伝わせて、夜には自ら店先に立って客呼びをしているうちに、欲が出たのか、いつの間にか恥ずかしさも失せてきたらしい。

 「負けましょ!負けましょ!」

と、人の後を追って叫ぶようになったのだった。人波に揉まれて、買い手の目もくらんでいる時であれば、今(現在)いる場所が、来世のお参りに一昨日来た(お寺の)門前であることも忘れてしまう。

(御新造が)「かんざし三本七十五銭」

と、掛値(高めに値段をつける)をすれば、

「五本まとめて七十三銭ならば(買いましょう)」

と(お客も)値切っていく。

 

(この様に闇の様な)世の中で、(その)闇に紛れたインチキ商売でのボロ儲けは、この他にも有るだろうが、信如にはこうした事でも、とても心苦しい。たとえ檀家の人たちの耳には、入らなくても近所の人々からの評価や、(自分の子供としての)友人知人の噂でも

「龍華寺では、かんざしの店を出して、信さんのお母さんが狂った様な顔をして売っていたよ。」

 などと言われるのではないか、と恥ずかしいので、

「そんな事はやめた方が良うございましょう。」

 と(親に)言って、止めた事もあったのだが、大和尚は大きく笑い捨てるだけ。

「黙っていろ!黙っていろ!貴様などには分からぬ事だわ!」

 と言って、全く相手にはしてくれない。(平然と)朝は念仏、夕べは勘定という毎日。日々、ソロバンを手にして、ニコニコしている顔つきは、自分の親ながら浅ましく映って、なぜ、その頭を丸めなさったのだろうか?と、恨めしくもなるのだった。

 

 もともと実の両親と姉弟の中で育っていて、他人の混じらない穏やかな家の中なのだから、さしてこの子(信如)を陰気な少年にしてしまう原因などないのだが。生来はおとなしいのに、自分の言い分が聞き入れられなければ、とにかく面白くなく感じる性格。

 父のやる事も、母の振る舞いも、姉の育てられ方も、皆、全て間違いのように思えてならないのに、(どうせ)言っても聞いてもらえないのだと、諦めると(何となく)悲しく思えて情けない。

 

 友達や学校の仲間(おそらく表町組の子供達、そして特に美登利の事ではないかと)からは、偏屈者だの意地悪だのと見られているけれど、どうしようもなく沈んでしまう、心の弱い自分なのだ。

 (本当は)自分の陰口を、少しでも言う者(おそらく表町組、特に正太郎と美登利)がいたと聞いても、出かけていって喧嘩口論をする勇気もなく、部屋に閉じこもって人に顔を合わせられない、臆病極まりない身なのだが、学校での学業の優秀ぶりと、身分が卑しくないために、それほどの弱虫だとは知るものがいない。

「龍華寺の藤本は、生煮えの餅のように真があって気になる奴だ。」

と、憎らしく思う者特に正太郎)もいる様だった。

 

以上が第九章です。

 

この章には、

龍華寺と大和尚(信如の実父)の実像。

龍華寺の御新造(信如の実母)の実像。

信如の両親が夫婦になった経緯。

龍華寺の姉娘(信如の実姉)の実像。

寺の人間でありながら欲深い両親、世渡り上手らしい姉の日常と、長男であり弟である信如の個人的な苦しみ。頑固なところはあっても、内心は意気地の無い自分を自覚し、恥じている心情。

などが描写されています。

 

信如は、商売に積極的だったり、生臭いものを好物とする両親について、学校仲間から噂される事をひどく恐れています。学校仲間といっても、横町組の仲間ではなく、特に表町の美登利と正太郎の事を意識している様に感じられました。

 

過去記事はこちらです。

obachantoarts.hatenablog.jp

 

この章を再読して思いました。やはり信如は、

速水真澄氏・・だなあと。

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今回の心のBGMは、こちらでした。

アニメ「ガラスの仮面」の、後半の方のEDでした。

切ないです。


素直になれなくて Splash Candy 玻璃面具ED3

 

 参考文献はこちらです。

たけくらべ 現代語訳・樋口一葉 (河出文庫)

たけくらべ 現代語訳・樋口一葉 (河出文庫)

  • 発売日: 2004/12/11
  • メディア: 文庫
 

 

 

ありがとうございます。