こんにちは!
スポーツの秋、芸術の秋、読書の秋ですね。
読書の秋という事で、改めて、こちらの記事を再アップ致します。
以前書いた文章を、更に推敲して、改めて記事にしました。
以前は、下記記事の様な解釈をしていたのですが。
改めて掘り下げた書評を書こうと思ったからです。
今回は、アナログな挿絵も描いてみました。
少しでもイメージの足しになれば嬉しいです💦
それでは、米津玄師さんの「フラミンゴ」の様に、
「鮮やかな」第一章を、私なりの現代語訳で「ふらふら」と、失礼しますm(_ _)m
たけくらべ 第一章 (吉原に住む人々)
実際に吉原近辺を歩いてみると、廓内から大門前にあるみかえり柳(※注釈1)までの距離は、本当は長いのだけれど……。
その柳の辺りからでもお歯黒どぶ(※注釈2)に、その灯りが映る廓の三階の騒ぎも、手に取るように聞こえてくる。そして、朝夕関係なしの車の往来に、計り知れない全盛が感じられて「大音寺前」と、場所の名前は仏臭いけれども
「それはそれは、陽気な町だよ」
と、住んでいる人々は言っている。
しかし三島神社の角を曲がった先には、これと言った家、建物もなく、傾いている軒端の十軒長屋、二十軒長屋ばかりである。商売は全く成功しない所だという事で、半分ほど閉まった雨戸の外に、怪しげな形に紙を切り抜いておしろい粉を塗りたくった物を貼っているのは、派手な色の田楽豆腐を見る様で、その紙の裏に貼っている串の様も、滑稽に見える。
そうした家が一軒、二軒ばかりではなく、その紙飾りを朝日の頃から外に干して夕日の頃に屋内にしまい込むやり方、労力も大げさで、家族総出で、この作業に熱心な様子である。
「それはいったい何なのですか?」
と、尋ねてみると、
「知らないのか?これこそが十一月の酉の市に、例の大鳥神社で、欲の深い方々が、競って買って担ぐ、縁起物の熊手づくりの下ごしらえだよ」
という話である。
この熊手作りの作業は、正月の門松を取り払う頃から始められて、ほぼ一年がかりで取り組むのが、本当の商売人と言えるもの。
たとえ本業の合間の片手間の仕事でも、夏の頃から手も足も絵の具で汚してまで取り組んで、
「正月の晴れ着の支度にも、この熊手の売り上げを当てるのだからね。なむやありがたや。大鳥大明神様!買う人にさえ大きな福を与えなさるのなら、製造元の自分たちには、一万倍の利益を与えてくれるだろうよ!」
と、こうした職人たちは、口をそろえる様だけれど、実際は、そうは思い通りにならないもの。
この辺りに大金持ちになった者の噂も、とんと聞かれた試しがない。
注釈1
なごりを惜しむ客になぞられて、そう呼ばれていた柳
注釈2
吉原にあった、黒く濁ったどぶ
ここ吉原に住む人の多くは、廓(くるわ)に関わる仕事の人々である。
例えば夫は小格子(※注釈3)の何やらという仕事の、ある家での事。下足札(※注釈4)を揃えた、「ガランガラン」という音も忙しそうな夕暮れ時に、夫が羽織を引っ掛けて仕事に出かけて行く時、後ろで夫の背中に、安全祈願の切り火をうちかける女房の顔も、
「これが夫の姿の見納めだろうか?十人斬りの巻き添え、無理心中のし損ねやら、恨みがかかりやすい立場で、危険なのではないか?」
と、不安そうなのだが
「さあ行ってくるぜ!」
という時の夫の様子は、命がけの仕事のはずにしては、まるで遊びに出かける様に見えるのも、なんだかおかしい。
注釈3
吉原の比較的小さい遊女屋
注釈4
履物を預かった時に渡す木札
ある家の娘は、大間鍵と呼ばれる最も格式の高い遊郭の下働きだとか。または、遊郭で客を鼓楼に案内する茶屋の、吉原では一番格式が高い引き手茶屋の、茶屋から大店への送迎、案内などの下働きだとかで、かんばんを下げながらの、チョコチョコ走りの修行中。そうした仕事を卒業して何になるのかといえば、
「とにかく桧舞台の花魁になれるのだろう」
と、判断するのは、おかしくはないだろうか?
あか抜けた三十歳くらいの年増の女が、こざっぱりして、しゃれた唐桟揃いの着物に紺色の足袋を履いて、雪駄(せった)をチャラチャラと忙しげに、小包を小脇に抱えているのは、わざわざ聞かなくてもそうとわかる。茶店のお茶屋の桟橋を、雪駄でトントンと鳴らして、
「まわり遠いし、こちらからの方が近くて楽だから、ここから失礼して渡しますよ」
そんな様子から、注文の品を届ける仕事屋さんだと、この辺りでは言うのだ。
この辺一体の風習は、他の地域のものとは変わっていて、女の子たちで、着物の帯がきちんと後ろ帯にしている子が少なく、みんな派手なガラを好み、幅の広い巻き帯である。
年増の女性は、まだいい方だ。十五、六歳の生意気盛りの女子が、ホオズキを含んで遊んでいる。
「全くそのなりは嘆かわしい、恥ずかしい」
と、目を塞ぐ人もあるはずだが、こういう場所柄なので、仕方もない。
昨日、ある河岸の店に「なんとか紫」と言う源氏名が耳に残っていた女が、今日は「地まわりの吉」という男と、手慣れない焼き鳥の夜店を出している。
そうした女も、それまでの貯金を使い果たしてしまえば、再び古巣である河岸の店へ戻る事になりかねない。その様なおかみさん姿は、それでも、どことなく素人よりは、見栄えが良く見える。
そんな訳で、こうした女性達の様子に染まらない子供もいない。
秋は九月の仁和賀(※注釈5)の頃の大通りの子供達を見てみなさい。見よう見まねで、それは良くも学んだものだ。太鼓持ちの幇間や、露八のモノマネ、栄喜の身のこなし、孟子の母親だって驚きそうな、上達の速さだ。
「うまいねえ」
と、褒められたので、
「それじゃあ、今晩も一回りしよう」
と、七つ八つの小さい子供からも集めて、すぐさまに、肩には手ぬぐいを置いて、みんなで、遊郭の冷やかし客が歌う「そそり節」を鼻歌で歌う始末。
十五歳の少年のませ方も恐ろしい。学校の唱歌にも
「ぎっちょんちょん……」
などと、拍子を取るわ、運動会には、木やり音頭(※注釈6
)も、歌い出しかねない様子。
そうでなくても、教育というものは難しいのに、この学校の教師の苦労は、どれほどだろうか?と思われる「育英舎」という学校が、入谷の近くにある。
私立だけれども、生徒の数は千人近くあり、狭い校舎が子供達でぎっしりの窮屈さ。なので教師への人望が、益々あらわれて、ただ「学校」と、一口で言えば、この辺りではこの学校の事だと分かるほどである。
この学校に通う子どもの中には、ある子供は「火消し鳶人足」の息子や、
「おとっつあんは、はね橋(※注釈7)の番屋に勤めているよ」
と、教えられなくても知っている、賢い子もいる。
梯子乗りのモノマネをしていて
「あれ、忍び返しを折りました」
などと、訴えたりのあれこれ。
弁護士の子供もあるようだ。
「お前の父さんは、馬(※注釈8)だねえ。」と言われて、その事を名乗るのが辛くて、子供心にも顔を赤らめる、控えめな様子の子供もいる。
金持ちの父親が出入りする遊郭で生まれた、寮住まいの秘蔵の息子が、華族様の様に、ふさ付き帽子に表情豊かで、洋服を当たり前のように華やかに着ており、周りの人々が
「坊ちゃん、坊ちゃん」と言って、その子におべっかを使うのもなんだか滑稽に思える。
そんな多くの生徒の中に、龍華寺の信如という少年がいる。
千筋もありそうな黒髪も、あと何年の命だろうか?それというのもやがては、墨染に変えなければならない袖の色の身の上なのである。
自発的な気持ちからのものかどうか分からないが。父親が寺の和尚で、勉強家の少年なのだ。最初のうちは生来大人しい性格なのを、友人達に厭わしく思われて、様々なイタズラを仕掛けられていた。猫の死骸を縄にくくりつけたのを
「お役目なのだから、引導を頼みます」
などと、投げつけられた事もあったが……
それはもう昔の事。今は校内一の、できる人物と思われていて、決して侮られてのイタズラはされなくなった。
歳は十五歳。並みの身長で、イガグリ頭も心なしか、周りの人たちとは違っていて「藤本信如(のぶゆき)」と、訓読みにしているけれど、どこやら釈迦の弟子とでも言いたげなそぶりである。
注釈5
にわか、茶番狂言
注釈6
本来は材木運びの音頭だが、吉原では、この風俗を模して祭礼のとき、手古舞姿の芸妓が歌う歌の事。
注釈7
お歯黒どぶにかかる橋。遊女の逃亡防止のために普段は上げてある。
注釈8
お金が足りなくなった客の自宅などに行き、残金を取り立てる役。
参考文献はこちらです。
個人的には、やはり・・と申しますか、この章の心のBGMは、こちらの曲でしたm(_ _)m
お付き合い、ありがとうございます。
だいぶ涼しくなってきましたが、皆様ご自愛下さい。