こんにちは!
今日は雨で、私は少し肌寒いですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
家事がひと段落したので、やはり今日も、こちらの続きを失礼します。
「たけくらべ」第八章は・・・
「吉原」って結局、どういう場所だったの?
と思っている皆様
どんちゃん騒ぎが好き!
サザンオールスターズの、はっちゃけた曲が好き!
という皆様に、特にお薦めの章です。
補足ですが、暮らしに困っていた樋口家当主の一葉さんは、亡くなる数年前、吉原近くに「駄菓子屋」を開いていて、お店をやりながら創作をしていた頃もあった様です。しかし、その時期があったからこそ「たけくらべ」という作品が生まれたのかもしれません。
第八章は特に、当時の一葉さんの女性視点からの、かなりシニカルなウィットのパンチが効いている文章だと、個人的に思います。
今回は、どの曲のどんな写真を選ぶか、非常に悩みました💦
結局、サザンオールスターズのこの曲しか浮かびませんでした💦
たけくらべ 第八章 (吉原の情景 無邪気な少女)
「走れ!飛ばせ!」
の、夕方の勢いに比べて、明け方の、ご贔屓の遊女との、別れの一夜の夢を乗せて走る人力車の寂しさよ。
帽子を深くかぶり、人目を避けるお方もいる。手ぬぐいをとって、それを頬かぶりしているお人は、女が別れぎわにくれた、なごりのひと打ちの痛さが身に染みていて、思い出す度に嬉しいのか、薄気味の悪いニタニタの笑い顔のお人もある。
「坂本通りまで出たら、用心しなされ。千住帰りの青物、果物を積んだ車にぶつかりそうで、お足元が危ないねえ。三島様の角までは、まるで気違い街道だ。
お顔の締まりが、どちら様も緩んでいて、恐れ多い事かもしれませんが、お鼻の下を長々と伸ばしておいでだと、そんじょそこいらの場所では、立派な紳士で通っていても、本来の値打ち、評判が台無しだ」
などと道角に立って、吉原へ通う男達について、陰口を言う者もいた。
楊家の娘(楊貴妃)が君(唐の玄宗皇帝)寵を受けて・・と「長恨歌」を引き出すまでもなく、娘という存在は、いづこでも貴重がられる、この頃だけれど、この辺の裏家から「かぐや姫」が生まれる例は多い事。
築地の、ある置屋に今は移って、御前様方のお相手をし、踊りの上手な「雪」という美女がいた。
「ただいまのお座敷でお米のなります木は……」
などと、とてもあどけない事を言っていても、元は、ここの町内の仲間内で花カルタの内職をしていた者である。
評判は一時は高くても、すぐに去るもの。うかうかしている間に、名物の花……つまり、売れっ子の女性が一つ姿を消して、二度目の花は、紺屋の末娘という次第。
今、千束町に新しく建った置屋の売れっ子をほのめかす、小吉と呼ばれる公園の貴重な娘も、生まれ育ちは、同じここの土地の者……
と、明け暮れの噂の中でも、このあたりで出世と言えば女に限った事で、男は「塵塚探す黒斑の尾」といって、ゴミの山を漁る野良犬の様に、居ても役に立たない者とみなされている。
この界隈で「若い衆」と呼ばれる街並みの青年たちは、生意気ざかりの十七、八歳からのグループ、五人から七人組で行動している。
腰に尺八をつけるような、粋な派手さはないけれど、何やら、厳しい名前の親分の手下になり、揃いの手ぬぐいと長ちょうちんを持ち、サイコロを振る事を覚えない間は格好が悪くて、冷やかしに吉原名物の格子先で、思い切っての冗談も言いづらいと見える。
真面目に勤めている家業は昼間の間ばかりで仕事を終えて、一風呂浴びて日が暮れれば、下駄をつっかけ、気楽な七五三の丈の着物で外に繰り出し、
「どこそこの店の新しい娘を見たか?金杉の糸屋の娘に似ていて、ちょっと鼻が低い」
などと、頭の中をそんなことでいっぱいにして、店の一軒ごとの格子にタバコの無理とり、ちり紙のおねだり。
そうしたやり取りの中での男女間の打ちつ、打たれつを、人生の名誉だと心得ているので、堅気の家業の相続息子が、地元のヤクザに改名して、大門のそばで喧嘩を買いに出た……などという事もあり、
「見てくれ、売れっ子の遊女の様な勢いだろう!」
と、言わんばかりの男もいる。季節の移り変わりを知らないように思える、五丁町の賑わい。お客のための見送り提灯は、今は流行らないが、茶屋が廻す女中の雪駄の音に響く歌舞音曲。
浮かれ浮かれて、吉原にやって来る人達に
「何がお目当て?」と尋ねてみると、
「赤襟、赭熊の髪型に、打ち掛けの裾が長く、にっと笑う口元目もととかさ。どこが良いとか美しいのかは、言いにくいけれど、花魁たちとは、ここでは敬うもの。離れていては、お知り合いになれないからね!」
この様な環境の中で朝夕を過ごせば、白い衣が紅色に染まるのも無理はない。
美登利の眼には、男というものが、さして怖くも恐ろしくも映らず、女郎という者を、それほど卑しいお務めとも思っていないので、昔、故郷を出発する当時の、姉を泣いて見送った事が、今は夢の様に思えている。
姉が今日この頃の全盛で、両親に親孝行できている事を羨ましいとさえ思う。売れっ子で居続ける姉の身の、本当の苦しみの数も知らないので、遊女たちのお客を呼ぶための鼠泣きや格子の呪文、別れぎわの背中を叩く手加減の秘密までも、ただ、面白く耳に聞いて、廓言葉を町で使う事も、それほど恥ずかしく思えないのも、哀れである。
美登利は歳はようやく数えの十四歳。人形抱いて頬ずりする心は、華族のお姫様とも変わらないけれど、修身の学問、家政学のいくらかでも学んだのは、ただ学校でだけ。
誠に、明けても暮れても耳に入ってくる事といえば、好いた好かないの客の噂話。お仕着せ積み夜具、茶屋への行き渡りなど、吉原特有の派手な事は魅力的に、そうでないものは見すぼらしく見えて、他人の事と自分の事の分別がつくにはまだ早い年頃。
少女心には、目の前の花にばかり目が行くし、持ち前の負けず嫌いの性格が勝手に暴走して、頭の中に雲のような世界をこしらえているようだ。
気違い街道。寝ぼれ道。朝帰りの殿方がお帰りになり、一仕事が済んで、朝寝坊していたの町人達も、門に箒の後が波模様を描いて、打ち水がほどよく済んだ表町の通りを見渡すと……
来るは来るは、万年町、山伏町、新谷町辺りを寝床にしている、一能一術があるので、芸人と呼ばれる者たち。飴屋、軽業師、人形使い、大神楽、住吉踊り、角兵衛獅子など。思い思いの扮装で、ちりめんすきやの洒落者もいれば、薩摩かすり洗い着に、黒繻子の幅の狭い帯などなど。
いい女もいれば男もいる。五人、七人、十人ひと組の、大所帯もあれば、ひとり寂しく痩せた老人が、破れた三味線を抱えて歩いている事もある。そうかと思えば五、六歳の女の子に赤たすきをさせて、紀の国を踊らせているのも見る。
そうした芸人達のお得意様は、廓内に居続けている客と、憂さ晴らしを求める遊女達である。
あの廓内に入っていく芸人達は、生涯やめられない程その場所で儲けているらしいと知られていて、来る者来る者、このあたりの町角での、少ない儲けは気にも留めない。
着物の裾が海草のように破れた、いかがわしい乞食でさえ、町角には立たないで行き過ぎるものである。
ある日、器量の良い女太夫が、笠をとって品のある頬を見せながら、のど自慢、腕自慢をしながら通り過ぎた。
「あれあれ、あの美声を、この町の自分たちには聞かせないのが憎らしい!」
と、筆やの女房が舌打ちをして言うと、店先に腰をかけて往来を眺めていた、風呂帰りの美登利。はらりと落ちる前髪を黄楊の鬢櫛にちゃっとかきあげて、
「おばさん、あの太夫さんを呼んできましょう!」
と言って、ぱたぱたと駆け寄って女太夫のたもとにすがり、たもとの中に何かを投げ入れた。その一品が何だったのか、美登利は誰にも笑って言わなかったが、好みの明烏(あけがらす)をさらりと歌わせて、
「 またご贔屓に」
と、愛嬌あるお礼の言葉を言わせたのだった。
「これはたやすく買えるものではない。あれが子供の仕業か?」
と、寄り集まっていた人たちが舌を巻いて、太夫よりも美登利の顔を眺めたのだった。そんな大人達の反応に得意になった美登利は
「粋な事だと思うから、通り過ぎる芸人たちを皆、町内にせき止めて、三味線の音、笛の音、太鼓の音、歌わせて踊らせて、そんな人がしない事をしてみたい」
と、その時に美登利が正太に、ささやいて聞かせると、正太は呆れて、
「俺らは嫌だな!」
参考文献はこちらです。
という訳で、今回の心のBGMは、ドインパクトのある、こちらの曲でした!
「愛の ために 生きりゃ いいじゃーん ♪」
サザンオールスターズ - 愛と欲望の日々(Short ver.)
今回も、野暮な挿絵はいらない章だと思いました💦
お付き合い、ありがとうございました。