こんにちは!
今回は「たけくらべ」第十章解説を失礼します。
秋🍁ですね。
秋も、深まってきたなあ・・と、感じている皆様に
お薦めの章です。
という訳で、ジョージ・ウインストンさんのアルバム「Autumn」より「longing love」
のイメージで失礼します。こちらは歌ではなく、ピアノ・ソロの名曲です✨
たけくらべ 第十章 (夏祭りから秋 格差、生活の情景)
祭りの夜は、田町の姉の所へ使いを命じられていたので、信如は夜更けまで家に帰らなかった。
そのため、筆やの騒ぎの事は全く知らず、翌日になってから丑松、文次、その他の仲間の口から、
「かくかくしかじか……だったんだ」
と、伝えられたのだった。今更ながら長吉の乱暴ぶりに驚いたのだけれど、済んでしまった事なので、責め立てる意味もなかった。
信如はただ、自分の名前を使われた事ばかりが、つくづく迷惑に思われて、自分がした事ではないのに、被害者である美登利や三五郎たちへの罪を、一身に背負ったような気持ちである。
長吉も少しは自分の失態を恥じているのか、信如に会えば文句を言われるだろう……と思ったらしく、その後の三、四日は姿も見せなかった。
そして、ややほとぼりの冷めた頃に、信如のところにやってきた。
「信さん、お前は腹を立てているかもしれないが、時の拍子だったんだ。だから、堪忍しておくれよ。
誰もお前、正太のやつが留守だなんて、分かる訳がないじゃあないか。
何も本当はさ、女郎の美登利の一匹ぐらいを相手にして、三五郎を殴りたかった訳ではなかったのだけれど。万燈を振り回しながら駆け込んで見りゃあ、ただでは帰れなかったんだよ。ほんの景気づけのつもりが、つまらない事をしちまった。
そりゃあ、俺がどこまでも悪いさ。お前の忠告を聞かなかったのは悪かっただろうけれど、お前に今怒られては形無しだ。
お前と言う後ろ盾があったんで、俺は大船に乗った気持ちだったのに、見捨てられちまっちゃあ困ってしまうじゃないか。
嫌だといっても、この横町組の大将でいてくんねえ。そうドジばかりは踏まないからさ」
と言って、面目なさそうに謝られてみれば、それでも自分は嫌だとも言いづらい。
「仕方がない、やる処までやるさ。しかし弱い者いじめは、こっちの恥になるから、三五郎や美登利を相手にしても仕方がないよ。
これからは正太に取り巻きがついたら、その時はその時の事だ。決してこっちから手出しをしてはいけないよ」
と、言い留めて、信如はそれ以上は長吉を叱りとばさなかったけれど、心の中では、再び喧嘩のないようにと祈るのだった。
罪のない子は、横町の三五郎である。存分に叩かれ、蹴られて、その二、三日は、立っても座っても身体中が痛くて、夕暮れごとに、父親が空の人力車を五十軒先の茶屋の軒先まで運ぶ時にさえ、
「三公はどうしたんだ?ひどく弱っているようだな」
と、顔見知りの仕出し料理屋に咎められる程だった。
しかし三五郎の父親は「おじぎの鉄」と言われ、目上の人に頭を上げた事がない男である。廓内の旦那は言うまでもなく、大家様である長吉の父、地主様である信如の父の、どちらにも
「ご無理ごもっともな事です」
と、受け入れるたちなので、息子の三五郎が
「長吉と喧嘩して、これこれの乱暴にあいました」
と、訴えたところで、そんな父親なので
「それはどうにも仕方がないよ。大家さんの息子さんじゃあないか。こっちに理由があろうが、先方の方が悪かろうが、喧嘩の相手になるという事はできないよ。お前の方から謝ってこい。謝ってこい。全く困ったやつだ!」
と、自分の息子の方を叱りつけて、長吉の所へ謝りに行かせるに決まっているので、三五郎は悔しさを噛み殺していた。
それでも七日、十日と過ぎてくると、体の痛いところが癒えるとともに、その恨めしさもいつしか忘れる三五郎。頭である長吉一家の赤ん坊の子守をして、二銭のお駄賃を貰えば素直に喜び、
「ねんねんころりよ、おころりよ」
と、おんぶして歩いている。
歳はいくつだと問えば、生意気ざかりの十六歳にもなりながら、その一方では、その大きな体で恥ずかしげもなく、横町組の敵地である表町へも、ノコノコと出かけてくるので、いつも美登利と正太の、いじられ役になっている。
「お前は性根をどこへ置いてきたのかい?」
と、からかわれながらも、遊びの仲間からは外れた事がないのだった。
春は桜の賑わいから始まり、夏の亡き玉菊の灯籠の頃、続いて秋の新仁和賀(注釈一)には、十分間に人力車が走る数は、この通りだけで七十五りょうと数えても、二の替り、つまり秋のにわか三十日間の後半さえもいつしか過ぎて、赤とんぼが田んぼに飛び交い、内堀にウズラがなく頃も近付いた。
(春の桜、夏の灯篭、秋の仁和賀が、吉原の三大行事の風物詩だった)
朝夕の秋風が身に染み渡るようになり、上清の店先の蚊取り線香が当時のカイロの灰にその座を譲り、石橋の田村やが粉を引くウスの音も寂しくなった。
角海老の時計の響も何となく悲しげな音を伝えるようになれば、四季の一年中絶え間ない、日暮里の火の光も、
「あれが人を焼く煙なのか」
と、うら悲しい。
茶屋の裏の土手下の細道に、落ちてくるような三味線の音色を仰いで聴けば、仲之町の芸者が、冴えた腕に
「君がなさけの仮寝の床に……」
と、何やら歌っている一節の趣も深い。
この時節から吉原に通いはじめる人々は、浮かれ浮かれた遊び目的の客ではなく、身にしみじみと人柄に中身のあるお方である。
遊女上がりの、ある女が言うには、
「そんな事ごとを書こうとするのは、くどくて煩わしい。それよりも、大音寺前での最近の出来事といえば、盲目の按摩師で二十ばかりの娘が叶わぬ恋をし、身投げをしたそうだ」
と言う噂。
「八百屋の吉五郎と、大工の太吉が、さっぱりと姿を見せないが、どうしたのかい?」
と、誰かが訊ねると、
「この件であげられました」
と、顔の真ん中の鼻を指して、花賭博が原因である事を伝える。
そうした事以外は他には、これといってうわさ話をする者もいない。大通りを見渡せば、幼い子供達が三、五人、手を繋いで
「ひーらいたーひーらいたー なーんのはーながひーらいたー」
と、無邪気に遊んでいるのも自然と静かな様子で、廓に通う人力車の音だけが、相変わらず勇ましく聞こえるのだった。
秋雨が、しとしと降るかと思えば、サッと音がして運ばれてくる様な寂しい夜の事。
通りすがりの客など待たない店なので、筆やの妻は、日暮れからは店の表の戸を閉めていた。その中に集まっているのは、いつもの様に美登利と正太郎、その他には小さな子供達の二、三人がいて「きしやごおはじき」と言う幼げな事をして遊んでいた。
美登利が、ふっと耳をたてて、
「あれ、誰かが買い物に来たのではないかしら?ドブ板を踏む足音がするよ。」
と言ったので、
「おや、そうか?おいらはちっとも聞かなかった」
と、正太も「チュウチュウタコカイ(注釈二)」の手を止めて、誰か仲間が来たのではないかと嬉しがったのだが、門の人は、この店の前まで来た時の足音が聞こえただけで、それからは、ふっと気配が耐えて、音も沙汰もない。
注釈一
初秋の行事で茶番狂言の事
注釈二
すごろくなどでの、数の数え方
参考文献はこちらです。
という訳で、今回の心のBGMは、ジョージ・ウインストンさんのピアノ曲
「憧れ・愛(邦題)」でした。
George Winston - Longing from his solo piano album AUTUMN
余談ですが、私はこの曲を高校生の頃に、テレビのCMで知り、憧れました。
そこで、級友からこの曲の楽譜をコピーしてもらいました。
小6でピアノ教室を挫折していた私でしたが、
「この曲だけは、弾けるようになりたい!」
と、頑張ったのですが・・頑張って、3分の1くらいは弾けるようになったような記憶が💦
今夜は、秋雨になりそうですね。
お付き合い、ありがとうございます。