こんにちは!
今日は昔、影響を受けた少女漫画について書きます。
今年の正月に奪還した漫画の中にありました。
成田美名子さんの「あいつ」(1980年ごろ)
という漫画です。
私は、この漫画を中学生の1年か2年で読みました。
部活で仲が良かった友達に借りたのがきっかけです。
主人公のみさとは、青森県に住む、拾った猫をたくさん飼っている世話好きな家(?)の一人娘さん。高校一年生になったばかり。
夢の実現のために自活している、同じ高校の3年生、沢田涼司と七緒辰之介が隣のぼろ家に越してきたことで、人生観が変わり、自分の今後の進路について、真剣に考え、行動していくようになります。
彼女は、天文学に興味を持つようになり、天文について専門に学べる学校が九州にあると知り、そこへの進学を希望し、母親を説得するように努力します。
私が十代のうちに、自分が感動した漫画で、自分の母にその作品を紹介して、共感や同意を求めようとした作品は、この漫画が最初で最後でした。
その結果は、共感どころの話ではありませんでした。
「漫画の世界と現実の世界を一緒にするな!」
「たとえその話が(ファンタジーじゃなく)現代の日本が舞台の話でも、
フィクションでしょ!!!」
と言われ、怒られました。
夢と現実をすっぱりと分けて生活することが要求されました。
それは、小学生の頃から始まっていました。
十数年ぶりにその漫画を再読して、私はこちらの過去記事のことも考えました。
最近特に思うのですが、
私の時代も、そうだったと思うのですが、いくら世の中に素晴らしい
「小説」「漫画」「映画」「音楽」など
がたくさんあり、作られ、それを若い世代、子供達がそれらに触れて、感動、共感でき、自分の人生に生かしたいと思っても、
大人の側が、それらにあまりにも共感、感動できなければ、あまり意味がないのではないかと感じるようになりました。
大人たちが、
「それはおとぎ話です」
「あっし(達とあんた達)には、関わりのねえことで ござんす」
(昔の時代劇の木枯らし紋次郎さんの名台詞)
という価値観があまりにも強すぎるのは、自分達にも子供達にも、あまり良いことと言えないのではないかなと。
子供達と同様、人生に対する「考え方の柔軟性」が大人の側にも求められているのではないかなと。
「あいつ」の話に戻ります。
ストーリの中で、改めて印象深く感じた場面があります。
九州の大学希望の話で、娘のみさとと喧嘩になったお母様。
「ちょっと、言いすぎたのでは・・?」という感じで、やんわり諭す夫に対し、お母様が言った事です。
「女親にとっては 子供は 自分の分身 なんですからね!」(P43)
でも、この漫画では、親子間で、健全な話し合いが行われ、みさとは希望の大学受験に向かって努力することになります。
子供の希望を全て叶えることは、現実的に無理だとは思うのですが、
あまりにも
木枯らしっちゃい過ぎるのは、大人の自分も嫌だなあ
と思うし、「木枯らし紋次郎さん」の本心は、この名セリフと真逆だったかもしれない。と、最近思います。
長文、失礼しました。